松之山温泉の夜を楽しむスポットが誕生した
厨房の奥にある薪釜に火が入れられる。カウンター越しに眺める炎の揺らめきが、深閑とした松之山温泉の宵を幻想的に彩る。薪の燃える匂い、パチパチとはぜる音。香ばしそうに焼けて出てきたのは、地元の山菜をふんだんに使ったピザだ。それらを楽しみながら、ワインやシェリー、地酒を飲む。温泉に浸かってリラックスした体に、ゆっくりと松之山の「滋味」が浸透していく。豊かで贅沢な時間と空間──。
2022年3月、松之山ビジターセンターが「湯治BAR 松之山温泉」としてリニューアル・オープンした。松之山温泉合同会社まんまの代表であり、「ひなの宿ちとせ」の主人である柳一成氏は言う。
「松之山温泉では、これまで旅館で夕食の前後に、お酒を飲んだりして外で時間を過ごせる場所が少なかった。今回の湯治BARは松之山温泉の新しい楽しみ方を提供する、大きなきっかけになると思います」
温泉に浸かって夕食を食べたら、もう少しお酒を飲みたいという人も多いはず。夜11時まで営業する湯治BARはそんな温泉客の格好のスポットになるに違いない。
前身である松之山温泉里山ビジターセンターは、2016年3月、それまであったコンビニエンスストアの跡地に開設された。松之山に来訪される方に温泉街や松之山地域の様々な情報を提供する施設として誕生したもの。
今回はそのビジターセンターの機能を残しつつ、前述のようにBARとしての機能を加え、さらに2階には「ひなの宿ちとせ」の離れとして、宿泊施設も備えた。
2010年からの温泉街の取り組みの集大成
ビジターセンターと今回の湯治BARの両方の設計を行った建築家の蘆田暢人(まさと)さんは、現在に至るまでのプロジェクトと活動を振り返る。
「そもそもの始まりは、2010年、環境省のプロジェクトである温泉バイナリー発電実証実験地域として、温泉熱を利用した消雪パイプが敷設されたこと。雪で閉ざされた松之山温泉街の景観はすっかり変わりました。その流れのなかで、2014年に雪国観光圏の景観整備プロジェクトが始まりました。松之山温泉をこれからどうしていくべきか? 松之山温泉組合の人たち、アートディレクター、建築家である私などが呼ばれ、数回にわたってワークショップが行われました」
この時計画されたロードマップをもとに、4つのプロジェクトが誕生している。
- 「湯守処地炉」の開設(2014年3月完成)
温泉街の奥、3号泉の近くに古民家を移築し、温泉街の迎賓館を作った。囲炉裏があり温泉調理のできるキッチン、足湯設備を備えている。 - 「消雪施設建屋」の開設(2015年5月完成)
道路の消雪パイプを稼働させるための機械を格納する小屋。熱交換器とストレーナーで温泉と河川水を熱交換し、道路に散水している。建物全体はこの地域の雪囲いを連想させる越後杉のルーバーで覆われている。 - 街路灯の設置(2015年12月完成)
街路灯のLED化に際して、雪国らしく雪切り機能を施した形状の街路灯を設置。 - 松之山温泉里山ビジターセンター(2016年3月完成)
当初コンビニとして使われていた建物を改修して、来訪者のためのビジターセンターとして再整備した。温泉街の統一的なデザイン要素として、消雪施設建屋と同じく越後杉の縦ルーバーで覆った。越後杉は松之山の景観プロジェクトの統一イメージとなった。
今回の「松之山温泉 湯治BAR」は、これらのプロジェクトの流れを汲みながら、さらに議論を重ね、生れて来たものだと蘆田氏は強調する。「湯治BARは単体で生まれたものではなく、松之山温泉街の全体コンセプトと方向性のなかで誕生したものです」(蘆田氏)
景観を楽しめる豊かな空間に生まれ変わった
もともとのビジターセンターの蔵のような建物の外観は大きくは変わらない。変わったのは外側を覆っていた越後杉のルーバーが取り払われたことだ。「オープンな空間にしたかった。外から中が見えると同時に、中からは外の温泉街が見える。温泉街側だけじゃなく、反対の山側も壁を取り払って大きな窓にしました。湯本川を挟んで崖に面していますが、冬は雪景色、夏は深い緑が楽しめます」と蘆田さんは説明する。
建物に一歩入ると、以前のビジターセンターとは全く異なった空間になっていることに気づく。左手には大きなカウンターがありBARとなっている。厨房には前述したように薪釜が備わっているのが特徴だ。いっぽう、右手には円形のカウンターがあり、それがこれまでのビジターセンター業務を行う窓口となっている。蘆田さんは、「業務カウンターの形と色に注目してください。白くて丸みを帯びた形状は松之山に積もった雪をイメージしたものです。夏であっても豪雪地帯の雪を連想してもらうためのデザインです」と、設計の意図を明らかにしてくれた。
全体にシンプルな造りで解放感がある。それは室内の色が黒と白という統一感のある配色にされていることも影響しているだろう。できるだけ窓の外の雪景色が映えるように黒を基調にした。無彩色の冷たさを感じさせないのは、ところどころに使われている越後杉の板の自然の温もり感だろう。外壁では取り払われた越後杉だが、しっかりと室内で使用され、以前からの松之山温泉の統一イメージも保たれている。
「泊まる」から「滞在する」温泉へ
2階に上がると、これまた雰囲気が一変する。そこはいくつかの部屋とキッチンが備わった居住スペースだ。ここでも松之山の景色を楽しめるよう、大きな窓が作られている。冬は雪景色をライトアップすることも計画しているそうで、そうなるとさらに幻想的な光景が広がるだろう。
居住スペースは「ひなの宿ちとせ」の離れ「かわ胡桃」として活用される。柳氏は、「これまでの松之山温泉は『訪れる』、『泊まる』という楽しみ方でした。この施設は『滞在する』という新しい楽しみ方を提案するものです。ですから1泊2日という貸し方はせず、少なくとも2泊、3泊、できれば1週間単位を基本に考えています」と話す。キッチンもついているので、自分たちで料理を作る。これまでの温泉宿に宿泊する旅とは全く違ったコンセプトなのだ。
4名までの利用が可能なので、一人当たりで換算すれば1泊8000円前後~12,000円くらいで宿泊が可能。たとえば企業の研修などで利用する。滞在しながら会議やワークショップを行い、煮詰まったら温泉に入ってリフレッシュする。会社の会議室では生まれなかった斬新なアイデアが生まれるかもしれない。もちろん夜は地域の方との交流も生まれるかもしれない。
高澤シェフプロデュースのBARで松之山の新しい歴史が始まった
3月開業を前に、2月19日にプレ・オープンパーティーが行われた。コロナ禍なのでごく内輪の少数での開催となった。「雪国観光圏として10年以上、景観整備含めてプロジェクトを行ってきました。この湯治BARはその一つの集大成でもあると思います。松之山温泉の新しい楽しみ方として定着し、さらに多くの人に来てもらえる温泉地を目指していきたい」と、柳氏の挨拶の言葉で始まった。
肝心の湯治BARを監修指導するのは、東京・赤坂の有名レストラン「TAKAZAWA」だ。「まつのやまダイニングin美人林」ですっかりおなじみの高澤義明シェフが、松之山温泉の意向を汲みながら、このBARの基本コンセプトを定めた。
「地元でとれた山菜にしても、松之山の温泉で熱を加えた湯治豚にしても、松之山の地のものを手軽に楽しみ、お酒が飲める場所にしたいですね。とくに薪窯にはこだわりました。炎が揺らめいていると、人は不思議にリラックスしますからね」
高澤シェフの父親は松之山の浦田という村の出身。幼いころから夏休みなど、松之山によく遊びに来たという。松之山とは切っても切れない縁でつながっている。ふだんはこちらのBARには入らないが2か月に一度ほどは松之山で腕を振るう予定だ。
参加した人たちは妻有ポークの湯治豚や、薪窯で焼いた魚沼美雪ますや山菜をふんだんに使ったピザなど、高澤シェフが腕を振るった料理とお酒を楽しむ。松之山温泉の夜を彩る新しい空間の誕生。まさにこれまでの取り組みの集大成であると同時に、松之山温泉の新しい歴史が始まった瞬間だった。
湯治BAR 松之山温泉
942-1432 新潟県十日町市湯本9-4
☎025-595-8588