美人林と水田
年間10万人が訪れる松之山の絶景スポット、美人林。細く美しいブナがすらりと立ち並ぶこの非日常的な景観のすぐ側には、棚田や民家があることをご存知だろうか。美人林だけではない。松之山では多くのブナ林がこのような状態にあり、ブナ林と人の営みを同時に観ることができる。松之山の人々にとってブナ林は、ごく日常的な景観の一部なのだ。
このような地域は全国的に見ても珍しい。関東の方では標高1000m前後より上部にブナ林が出現することが多いのに対し、松之山では人間の生活圏と重なる標高200mという低標高からあるという。気温で考えるとブナにとって適しているとは言えない低標高で、なぜブナ林が成立できるのだろう。それには、松之山が日本有数の豪雪地帯であることと深い関わりがあった。
十日町市立里山科学館越後松之山「森の学校」キョロロの学芸員で、環境科学博士として長年に渡りブナの研究をしている小林誠さんに、松之山のブナにまつわる様々なお話を聞いた。人間の生活圏と分布が重なり、そこに暮らす人々とも深いつながりを持つ松之山のブナ林。お話から見えてきたのは、共に支え合いながら共生するブナ林と松之山の人々の姿だった。
小林誠さん
低標高のブナ林と雪の関係
「ブナは、日本の天然林の面積の大部分を占めている」という小林さん。日本には約1500種もの樹木があり、ブナはその中の1種にすぎない。そのブナが、なんと日本の自然林面積の約15%を占め、国土面積の6%を占めているというから驚きだ。ブナ林の分布していない県は全国にわずか2つほど。日本にどれだけブナが多いかがわかる。
このように日本全国に広がるブナ林には、関東地方と日本海側では出現する標高に違いがあるという。「関東地方だと、1000メートル前後から上の標高に行かないとブナって出現してこないんですね。ですので、もう何時間も山を登って行かないとブナ林がないっていうのが、一般的なイメージだと思うんです。でもそのブナ林が脊梁山脈を越えて日本海側にくると、非常に低標高まで分布しているんですよ。松之山でも標高約200メートルという低標高にブナ林があったりします」。
日本のブナ林の多さ、またこうしたブナ林の分布に最も関係していると考えられている要因が“雪”だ。日本におけるブナの森の分布は、日本海側の多雪地帯に偏っているという。また、日本のブナ以外の樹木は、積雪量が多くなるほど森の中で優占することができなくなるのに対し、ブナは逆に優占度が高くなることがわかっている。
なぜブナは、雪の多い地域で優占することができるのだろう。いくつかの理由があるという小林さん。その1つが、ブナの“雪圧に対する強さ”だ。「ブナって、根曲がりしてますよね。根元だけがぐにゃっと曲がって、あとは森の天井に向かって垂直に伸びている。あれは、ブナの若い苗が雪に押しつぶされて地面に寝て、雪が溶けるとまた立ち上がって、そういったことを何十年も何十年も繰り返してできるんです」。他の樹木が寝てしまうような雪圧でも、ブナの場合は直立できるという。
また、雪がブナの種子の死亡要因から守ることも、理由の1つだと考えられている。「ブナの種は乾燥に弱いと言われていますが、冬の間に雪の布団を被ることで、乾燥から免れることができます。また、雪が降ると種を食べるネズミなどの動物の活動が制限されるので、捕食者からも逃避できます。雪があることが、ブナの世代交代で見たときの一番初期の段階にもとてもよく効いているんです」。
1メートル以上の降雪がある地域は、環日本海地域で見ても日本以外には中国の一部の山脈にしか存在しないと言われている。松之山は、低標高にありながら大量の雪が降る、世界的にも珍しい豪雪地帯。「松之山では、そうした雪を味方につけて、ブナが森を優占して作ることができているんです」。
棚田と雪とブナ林が地域の稲作や自然を支える
松之山では棚田とブナ林をセットで観ることができる
ブナ林が低標高にあることで、松之山のブナ林の分布は人間の生活圏とも重っている。「棚田とブナ林をセットで観ることができる」ことも、松之山の大きな特徴の1つだそうだ。それらは単なる景観としてあるのではなく、地域の稲作や自然とも深くつながっているという。
松之山地域には大きな川がない。そのため稲作には天水を利用しなくてはならないのだが、そこで重要な役割を果たしているのがブナ林だ。“自然のダム”とも呼ばれるブナ林の土は、抜群の貯水力を持っている。「昔の方はよくご存知で、ブナ林の縁だとか森の中に池を作ると、水が溜まるんですよ。この辺りでは棚田の一番上にブナ林が残っていたりしますが、そこには溜め池もあって。ブナ林で降った雨や雪が染み出て池に溜められて、それを棚田でのお米づくりに使っている。だから松之山は、お米と雪がブナ林を介してつながっている地域なんです」。
ブナ林の土は多層になっている。貯水力の高さの秘密はここにある。
また、そのような水辺環境があることが、多種多様な生き物が生育するのにも役立っているという。「棚田と雪とブナ林が、人間の恵みにもなり、またこの地域の自然を支えることにもつながっているんですよね」。
ブナ材の今日的な活用法、“スノービーチ”と“ブナのファーストトイ”
人間の生活圏とも重なる松之山のブナ林は、かつては薪炭林としても地域の人々に利用されてきた。そのため松之山のブナ林は、そのほとんどが二次林(薪炭として伐採された後に再生した林)と言われている。しかし燃料が薪から灯油などの化石燃料に代わってきたことで、ブナ材はかつての役割を失いつつある。こうした状況の中で、ブナ材の新たな活用法を探ろうとするいくつかの取り組みがはじまっているという。
“スノービーチ”の「カミキリムシがデザインした」ブナ材
取り組みの1つ、“スノービーチ”。この取り組みには、低標高のブナ林の材が抱える“ある問題”が関係している。「低標高のブナの半数ほどの幹の中には、カミキリムシの食べた跡があるんです。カミキリムシの分布は標高が低いため、低標高のブナ林の分布と重なってしまうのです」。
カミキリムシが穴を開けてしまった材は、見方によっては低質で、商品価値が低いとも言われている。スノービーチはその穴を、逆に付加価値として提供しようとする取り組みだ。「逆に『カミキリムシがデザインした』ということで何かに活用できないかと。今いろいろな方が挑戦しているところです」。
“ブナのファーストトイ”はアカショウビンがモデル
“ブナのファーストトイ”は昨年度からはじまった。美人林の間伐材をおもちゃに変え、それを地域の子供たちにプレゼントするという取り組みだ。背景には美人林が抱える地域課題がある。「美人林は過密で美しいですが、逆の見方をすると細くて脆弱。また、年間10万人の方がいらっしゃいますので、地面は踏まれて固くなっています」。こうした課題を解決するため、ここ数年落ち葉を敷いたり、過密状態を緩和するための間伐も進めてきた。「間伐した材をチップにしてその場に敷いたりしてきたんですけど、チップにするだけではちょっともったいないな、と」。地域課題もフォローしつつ、地域にとって有効的な活用法がないかと検討をはじめた中で見つけたのが、この取り組みだったという。
地域の木材を使用して作ったおもちゃを、ファーストトイとして地域の子供にプレゼントしようという取り組みを“ウッドスタート”という。東京おもちゃ美術館が主体となり、全国各地の自治体と契約をして行う。小さなおもちゃであればカミキリムシの食害も問題にならない。しかし十日町市全体で見ると間伐材は少量。市との契約になるため、「松之山単独では難しいかも」と不安に思っていたというが…。「ウッドスタートの事務局さんに伺ったら、『魅力的な取り組みですので、ぜひやってみてください』というお話があって。じゃあ、松之山という小さな地域なんだけど、挑戦してみようと」。
おもちゃ製作にはスノービーチのメンバーの協力も仰いだ。モデルにしたのが、アカショウビンという鳥だ。旧松之山町の町の鳥でもあるこの鳥は、春先になると東南アジアから渡って来て、松之山のブナ林で子育てをして、また南に戻っていく。「ブナ林で子育てをするということが、地域の子育てを連想させますし、また、必ず松之山に帰って来きます。アカショウビンのように『地域の外に出ても、帰って来てほしい、地域を応援してほしい』という願いを込めました」。
現在十日町市が地域づくりのスローガンとして掲げている、“選ばれて住み継がれるまち とおかまち”。ブナのファーストトイは、この実現に向けた取り組みでもあるという。「地域づくりのスローガンともリンクします。アカショウビンは、松之山を選んで帰って来る鳥ですので」。
今年のブナは「2011年以来の大豊作」
人々の営みや自然を支え、また時に支えられながら、地域と共生する松之山のブナ林。最後に小林さんは、興味深いブナの特性について教えてくれた。
「ブナは毎年のように種子をつけたりしません。5年から7年に一度、大量に花を咲かせ、実をつけるということをします」。ブナは豊作・凶作のパターンが非常に明瞭な樹木だという。なぜこのようなパターンを持つようになったのか。その要因として有力な説が、“捕食者からの逃避”だ。「ブナの種子って、美味しいんですよ。それこそ人間がそのまま食べられるくらいで。非常に優秀なエサ資源なので、それを狙うねずみだとかも当てにするんですね。例えば、毎年同じ量の種をブナがつけていくとすると、エサの予測性が高いので、それを食べる捕食者も安定的に生存できる。だから常に食べ尽くされる状況が発生するわけです。それが、豊作・凶作のパターンをつけて、例えば凶作の年を何年か続けると、捕食者の数も連動して減っていく。そして減った後に一度に大量に種子をつけると、捕食者の数の増加が追いつけないんです。そうすると、種子が食べ尽くされずにたくさんの芽生えを発生させることができるというわけです」。
面白いことにこの豊作・凶作のパターンは、かなり広範囲のブナ林が同調するという。過去には日本全国のブナ林が同調した年もあったとか。同調に使用される要因について、小林さんは“気象要因”だと説明する。「広範囲で繁殖を同調するためには、広範囲のブナが感受できる気象要因が重要だと考えられています。ブナの場合は、前の年が凶作で、かつ春先の気温が平年よりも低いか夏の気温が高い場合に、次の年に花をつけるというスイッチが入ると考えられています」。しかもこのスイッチONにはブナの体の中にある窒素がカギになっていることが近年わかってきたようだ。「最近、窒素の資源量が多いと花を作る遺伝子にスイッチが入ることがわかってきました。ブナは豊作の翌年には、ほぼ確実に凶作になります。これは、ブナは種子への窒素投資量がとても多く、繁殖後にこの枯渇が生じることで明瞭な豊作・凶作のパターンが生まれると考えられています。ブナの凶作の年は、ブナの種子を餌資源とするクマの人里での出没が多くなりニュースを賑わせますが、ブナの花が咲く時は森の生き物にとっても大きなイベントなんです。」
松之山周辺で約13年間に渡りブナを調査し、毎年どれほどの花が咲いたかを観測しているという小林さん。今年、数年ぶりに大量開花を観測した。「今年は2011年の大豊作の年と同レベルのブナの大量開花を迎えています。ですので今年の秋は大量の種が落ちてきますし、来年の春には足の踏み場もないくらいのブナの実生が見られますよ」。
松之山のブナ林を訪れることがあったら、その美しい幹や葉だけでなく、足下にある芽生えにも注目してみてはいかがだろうか。
語り手:小林誠さん
十日町市立里山科学館越後松之山「森の学校」キョロロの学芸員。環境科学博士。松之山に移住して10年になる。