松之山の民芸品「野鳥こけし」。地元のお母さん方によってひとつひとつ手作りされ、訪れたお客さまにお土産として長い間愛されてきた。
この野鳥の形を模した手のひらサイズの人形は、民芸品の中でも珍しい作りをしているという。やさしい風合いが感じられる胴体は、染色した綿を貼り合わせてできている。全体は、木、針金、色糸、鳥の生羽などの多くのパーツからなっており、一見するとまるで本物の鳥のような精巧さがある。昨年、その精巧な出来が思いもよらなかったところとの縁を生み、野鳥こけしはこれまでにない注目を集めはじめていると聞く。
野鳥こけしはいったいどのようにして生まれ、受け継がれてきたのだろう。これまでにない人気について、野鳥こけしの生産者はどのような思いを抱いているのだろう。生産者の小野塚ハルエさんに話を聞くと、野鳥こけしと松之山の雪深さとの関係が見えてきた。作ることが「本当にね、私は楽しいの」と、笑顔で語るハルエさん。話は後継者を育てることの難しさや、作り手としての思いにまで及んだ。
小野塚ハルエさん
野鳥こけしの原型は、昭和35年頃に誕生したと言われている。地元の温泉旅館の主人の手により趣味として作られていたというそれは、欲しいというお客さまに分けられていたそうだ。野鳥こけしが地域の民芸品となるきっかけとなったのは、昭和37年頃に松之山で起きた災害。大規模な地滑りが発生したため、農耕ができないような状態になったという。「これは何とかしなければ」と、当時の町役場の方で野鳥こけし作りを農家の副業にと推進したようだ。
雪深い松之山には、もともと冬場の産業が少なかった。冬になると男性は出稼ぎに出るが、女性は他所へは行けずに留守番しているという家も多かったという。「冬なんて全然お金が入らない時代に、ちょっとでもお金になるというので、余計にきっと広まったんだと思う」というハルエさん。野鳥こけし作りはこうして、お母さん方の冬場の内職として地域に広まっていった。
ハルエさんが野鳥こけし作りをはじめたのは、今から約40年ほど前。家族の都合で冬の間は家を空けることができなかったところを、「それならちょうどいい」と近所の仲間に誘われた。当時の生産者は今よりずっと多かったそうだ。多くのパーツからなる野鳥こけしはそれぞれに専門の生産者がおり、それら全てを合わせると40人から50人ほどだった。ハルエさんの専門は、パーツを組み合わせて完成品に仕立てる「仕上げ」の行程。この行程ができる生産者も10人以上はいたという。
「野鳥こけしの総会だなんていって、ひなの宿ちとせですごい大人数で集まったこともあった。」
それら生産者が、高齢化や離村などを理由にここ数年で激減している。パーツ専門の生産者はほぼいなくなり、仕上げができる生産者はハルエさんを含めて3人だけになってしまった。後継者を育てるべく野鳥こけし作りの講習会なども開かれてはいるが、それも生産者の減少に歯止めをかけるにはいたっていないという。なぜなのか。
綿を貼り合わせてできた胴体
「なんせ時間がかかるんです。覚えるまでに」
その精巧さゆえ、野鳥こけしは作るのに高い技術を要する。ハルエさんも安定して出荷できるくらいの腕前になるまで、はじめは一冬ほどかかった。詳しい人に聞きながら覚えるしかないため、近所のベテランの方にずいぶんとお世話になったという。
「どれくらい通ったかわからないくらい。わからないってなっちゃあ、聞きにいってねえ。」
時間がかかるのには、野鳥こけし作りが冬場のみの内職であるという、雪国ならではの理由もあるようだ。冬場にせっかく覚えても夏場にやることがないため、次の冬にはほとんど振り出しの状態に戻ってしまうのだそう。「満足にできるようになるまで、3、4年はかかった」というハルエさん。一人前に育つ前にやめてしまう人が多いのだそうだ。
昭和の後期に交通の便がよくなったことも、後継者が育たなくなった理由のひとつかもしれない。冬場でも他所に出かけられるようになったため、野鳥こけしが内職として広まりはじめた頃と比べると、仕事も自由に選ぶことができる。かかる手間を考えたら、野鳥こけし作りは割りのいい仕事とは言えない。
「一週間通えば、8日目からは確実にいくらいくらになるって、そういうのじゃない。何回も失敗してやっとこさ、10個のうち1、2個引き取ってもらえるのができるかどうか。お金になるのはそれからだから。」
また、後継者不足に加え問題とされているのが、材料として欠かせない生羽の不足だ。「羽さえやたらにあれば、もっと気軽に誘えるのに」と、ハルエさんは洩らす。材料不足の問題が後継者を育てるのにも足かせになっているという。
後継者と材料の不足に悩まさせる野鳥こけし作り。しかし暗い話題ばかりではない。野鳥こけしの精巧な出来が、昨年、それまでは想像もしなかったところとの縁を生んだ。県外でほとんど販売されることのなかった野鳥こけしが、東京新宿にあるBEAMS JAPAN(ビームス ジャパン)に置かれたのだ。
販売元の有限会社湯米心まつのやまによると、きっかけは、郷土玩具「鯛車」の復活を目指して活動する「鯛車復活プロジェクト」のメンバーの方が、新潟市美術館のショップに置かれている野鳥こけしを見つけたことだったという。「どんなところが作っているのだろう」と、その方はわざわざ松之山を訪ねてくれたそうだ。「鯛車復活プロジェクト」はもともとBEAMSとも取り引きがあったようで、その方がBEAMSに野鳥こけしの話をしてみたところ、「置いてみたい」と興味を持ってくれたとのこと。後日、BEAMSのバイヤーの方が松之山を訪れる。野鳥こけしを間近で確認したバイヤーの方は、「ひとつひとつ精巧にできている」「かたちが綺麗だ」と気に入ってくれたそうだ。はれて、野鳥こけしがBEAMS JAPANに置かれることとなった。
このことがきっかけで、予想もしなかったほど遠方からの注文も来た。アメリカでショップを経営されている方が、BEAMS JAPANに置かれている野鳥こけしを気に入り、「自分の店に置きたい」と注文してくれたという。BEAMSといえば、国内に留まらず海外にも店舗を構える、名のあるセレクトショップ。注目の度合いは、これまでとは段違いのようだ。
野鳥こけしがBEAMS JAPANに置かれていることについて「もちろん嬉しい」としながらも、ハルエさんの思いは複雑だ。もし今よりも人気が出てたくさんの注文が来ても、現状の体制では生産数に限度がある。今の願いはやはり、生産者が増えてくれること。
「毎日でもうちに来てもらって、教えるから。ぜひ来てください、一緒にやりましょう、と言いたい。」
金銭面を考えると割りがいいとは言えない仕事だが、それでも人に勧めたいのには理由がある。「本当にね、私は楽しいの」と笑顔で話すハルエさん。
「こたつに入ってラジオを聴きながらできるから、時間つぶしにはもう、ごくいい手仕事。ある程度の歳になれば、勤めに出ることもできなくなるし、冬はなんせ暇なんです。今は屋根も落雪式になって、手間もかからなくなったし。」
技術的には難しい野鳥こけし作り。しかしハルエさんは「大変は大変なんだけど、でも一旦覚えてしまうと面白みもある」という。なんでも、他の趣味では得られない楽しさがあるのだとか。
「結局、手作りだから、毎回まったくおんなじのは絶対できない。今回はもうちょっと上手にしようって、常にそう思いながらしているんだけど、その通りにならない。でもそこが面白い。だから続けているんだと思うんです。編み物もしてみたけど、ちょっとお金を出せば、手作りよりいいのが買える時代でしょ。その点、これは手作りでも、ここにしかない、2つとないものだからね。」
語り手:小野塚ハルエさん
野鳥こけしの数少ない生産者のひとり。難しい行程である「仕上げ」を専門にしている。